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カラハリの夜明け - Masa a Kgalahadi: Dawn of Kalahari -

ボツワナにJICA SVとして派遣される記録

SVに応募した経緯

簡単なプロフィール

前職

前職では生命科学系の仕事をしていました。
アメリカのサービスを日本で売っていたので、留学から帰ってあまり使っていなかった自分の英語力を鍛えてもらえたと思います。具体的に言うと英語で電話をするのがドキドキするレベルから、英語で電話をするのにドキドキしないレベルまで上達しました。

東京から信州へ

2015年に入り、異動で信州へ引っ越しました。信州は自分の心のふるさとなので、喜んで信州へ行きました。
信州へ引っ越して間もないころに「早期希望退職の募集を行う」という話がありました。ここまで不景気なのは感じていたのですが、ついに正規雇用者の整理に着手するという苦渋の決断でした。条件は40歳以上とのこと。僕は当時41歳でした。

次にやりたいことが決まっているとかそういうわけではなかったのですが、業務がルーティン化していたこともあり、新しいチャレンジをしたいという思いで早期希望退職に応募し、受理されました。
僕としては最長となる6年強のサラリーマン生活、41歳という年齢もありましたが、次の方向性は「日本から日本を見るサラリーマン仕事はもうしない、国際的な仕事、NPOベンチャーのような熱い仕事、あるいは海外から日本との橋を作るような仕事」をしたいと思っていました。

退職したのは2016年2月、早期希望退職なので雇用保険はきっちりいただけます。いくつか転職オファーももらったので面談などもしましたが、とりあえずは焦らずにじっくりと。3月~4月の間に1か月ほどミャンマーバングラデシュへ仕事探しのプレ調査として旅行に行きました。

途上国開発の現場から

ミャンマーバングラデシュでは現地のビジネスにも積極的に足を突っ込んでいき、観光だけでは見られないシーンにもたくさん出かけました。その中でJICAの職員や大使館職員の人たちと交流をする機会もありました。

そんな中でJICAスタッフや大使館スタッフに「JICAのボランティアやってみたらどうかな?」と言われたのですが、自分の中では青年海外協力隊をやる立場(むしろ経験を伝える側に回るべき)じゃないだろうかという思い、そして年齢的に青年じゃないという問題もあったので「青年は流石に無理でしょう」と答えたら「青年じゃなくてシニアだよ、向いてると思うよ」と言われました。
若い気持ちが先行しているので、「シニアって歳でもないでしょう」…と思ったものの、複数の人にそう言われるのならば、と帰国して調べてみたところ、JICAのSV(Senior Volunteer: シニア海外ボランティア、シニアボランティアとも呼ばれる)は40歳からということを知りました。
そういえば前職の上司もJOCV(Japan Overseas Coorporation Volunteers: 日本海外協力ボランティア、海外協力ボランティアの総称)出身で「次の仕事、JICAのボランティアも考えてみたら?」と言われていました。

これまでJOCVに参加した友人や後輩は数多くいます。選考に漏れて悔しい思いをした人の話も聞いています。帰国者報告会を主催した事もありました。なのでJOCVは身近に感じていたのですが、自分が行くという事はそれまで考えてみたことがありませんでした。大学院を出て働き出して、まだフレッシュなうちにそういう機会を逃したな…と単純に思っていました。ただ、JOCVのプログラムは素晴らしいと思っていたので、外野として支援をしていました。

JICAの要請を眺めてみる

JICAのWebサイトから要請一覧を眺めているとピンときたものがありました。ボツワナで環境教育、使用言語、生活言語は英語、語学レベルはA、要実務経験5年、現地のNGOに派遣されるという内容でした。
語学レベルAはTOIEC730と書かれていましたが、留学帰りの14年前のスコアが730点です。そこから英語力は上がっているとは思いますが、テストは全く受けておらず自信はありません。
そして実務経験5年。環境教育の現場でプロジェクトの運営、管理、予算集め、報告書づくりなど、専従としてやったことはほぼありません。しかし事業開発部門サラリーマンの経験はそれらを補完するものになりますし、学生時代からずうっとNPOに関わり、市民活動に関わりながら、環境教育に意識を持ってきました。留学はUniversity of Minnesota Duluthの環境教育プログラムで大学院生として専門課程を勉強させてもらいました。
これはいける! いや、俺じゃなきゃダメなプロジェクトじゃないか!
そう自分に言い聞かせて、応募する決心をしました。2016年4月初旬、桜の花見を追いかけに北上する計画をあきらめたのでした。